甘霧庵

古都京都の文化財 東寺 その4 西寺もいいお寺だったと思います。残っていたら世界遺産間違いなしです。

皆さんこんにちは。

甘霧庵でございます。

さて、平安京の遷都の時に南側の守りとして東寺と西寺を建立しました。

796年(延暦15)に藤原伊勢人(いせんど)が東西両寺の造寺長官に任命されているらしいです。

823年(弘仁14)東寺は空海に託され真言(しんごん)密教の中心道場となったのに対し、

西寺には守敏僧都(しゅびんそうず)が入り、官寺(かんじ)として発展しました。

Wikipediaの記述によりますと。

「官寺とは、国家の監督を受ける代わりに国家より経済的保障を与えられた寺院。

寺格の一つ。

狭義には食封や墾田保有権(荘園私有の権利)を国家から与えられて、

運営が行われている寺院のことを指すが、

広義には朝廷または国衙が伽藍の造営・維持のための費用その他を拠出している寺院を指す。」

だそうです。

考えるに、

当時の京都の天井人の経済を支えるには人口が少なすぎたのでしょう。

人口が少ない分、

税収がが少なく、

そのため国営事業をして

足りない税収を補っていたのかもしれません。

東寺が修行(学問)をする場であったようですので、

東寺が学問の府、

西寺が公営事業の中心として建てられたのでしょう。

では何故、東寺がいまだに存続しているにも関わらず、

西寺は無くなったのでしょう。

そのあたりは次回。

続く。

画像

西寺復元模型

Wikiwikiyarou – 自ら撮影, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2221648による


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