甘霧庵

古都京都の文化遺産 二条城 その2 初代二条城 二条御所は悲劇の舞台でした。

皆さんこんにちは。

甘霧庵でございます。

さて、初代二条城は正式には二条御所と言われておりました。

室町幕府を築いた足利尊氏の側近中の側近だった斯波 高経(しば たかつね)の四男斯波 義将(しば よしゆき)が

現在の平安女学院のあたりに本宅を構えました。

その頃、斯波 義将さんは昇進して、武衛(ぶえい)という役職につきます。

この役職は兵衛府(ひょうえふ)とも呼ばれ、

その役職は高貴な方の護衛、つまりSPのお仕事をになります。

そして、斯波 義将さんの本宅は武衛陣(ぶえいじん)と呼ばれ、

その周辺は武衛町と呼ばれるようになりました。

しかし、斯波家が次第に中央から疎んじられ凋落すると、

斯波家は衰退して行きました。

そして1564年13代将軍足利義輝は武衛陣の跡地に新たな屋敷を建築しました。

この御所は当時、「二条武衛陣の御構」と呼ばれていたそうです

ただし、二条通との接点を持たないにもかかわらず、二条の名前がついております。

しかし、翌年、三好義継や三好三人衆、松永久通とともに一万の軍勢で二条御所に押し寄せ、

義輝に要求ありと訴え、取次ぎを求めて二条御所に侵入してしまいます。

御所には堀はありましたが、門は未完成だったようです。

義輝は討ち取られ、

二条御所には火をかけられました。

無念だったでしょう。

画像

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