皆さんこんにちは。
甘霧庵でございます。
さて、1583年、豊臣秀吉さんは京都の拠点として妙顕寺城を建築しました。
その跡地がここです。
上の地図ではわかりませんが、すぐ西側には現存する二条城があり、東側に500mほど行くと織田信長さんが作った二条城があります。
そして御所は北東の方角にあります。
ですから立地としてはいいところですね。
豊臣さんは元々ここにあった妙顕寺を移築させてお城を建てました。
そして、ここに前田 玄以さんを赴任させて京都の交渉の場あるいは政務の場としておりました。
しかし、1587年に妙顕寺城よりも北側、
御所の真西に聚楽第という巨大な建物を建築します。
それに伴い妙顕寺城は取り壊され、
江戸時代の一時期には刑務所が建っていたようですが、
それも火事で消失し、
現在は西福寺というお寺が立っております。
聚楽第には秀吉さんの甥っ子豊臣秀次さんがお住まいになっていたらしいのですが、
その秀次さんに不祥事疑惑が起きます。
秀次さん自体は否認したようですが、
秀吉さんはこの事件を重く見て秀次さんを高野山に追放し、その後切腹させます。
さらに秀次さんの罪の重さを強調するかのように聚楽第を徹底的に破壊してしまいました。
いよいよ次回から4代目二条城のご紹介です。
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三井文庫蔵 – 1. [1], 2. [2], パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3373020による