甘霧庵

古都京都の文化遺産 二条城 その19 放置に耐え、天災を乗り越えた二条城。でもこれは酷い。

皆さんこんにちは。

甘霧庵でございます。

さて、二条城は徳川家康によって築城されました。

しかし、江戸時代の割と初期から徳川幕府から見向きもされない時代を迎えます。

その不遇の時代を耐え、

さらに火事や地震などの災害を乗り越えました。

1868年(大政奉還の翌年)に徳川幕府から天皇家に所有権が移転し、

以降、京都府庁を経て、

1884年正式に宮内省所管の「二条離宮」として京都における迎賓館としての役割を果たすようになります。

そんな、二条城は1939年に京都市に宮内庁から下賜され、

翌年、「恩賜元離宮二条城」として一般公開されることになります。

この「恩賜元離宮二条城」という名前は二条城の歴史を物語っています。

しかし、二条城に最大の恥辱が待っていました。

1945年に日本が敗戦すると、

1950年にGHQの意向によりあの「清流園」の一部をテニスコートにしてしまいました。

よりによって「清流園」をです。

大正天皇陛下が即位された時の饗宴の場として使われたところをテニスコートって

いくら敗戦国とはいえあまりにも酷すぎます。

もちろん、1965年に庭園として整備し、

この時「清流園」という名前がつけられました。

名付け親は当時の京都市長高山 義三(たかやま ぎぞう、1892年6月15日 – 1974年12月6日)さんです。

続く。

画像

1890年ごろの二条城

日下部金兵衛 – Leiden University Library, KITLV, image 110659 Collection page Southeast Asian & Caribbean Images (KITLV), パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=48350892による

 


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