皆さんこんにちは。
甘霧庵でございます。
さて、浅野内匠頭の刃傷事件に発した一連の事件で、
赤穂藩は大揺れでした。
赤穂藩の地元の官僚は御家復興を願っておりましたが、
赤穂藩の江戸詰の武士は吉良家討ち入りを願っておりました。
その討ち入り派の筆頭格が堀部 武庸(ほりべ たけつね、1670年-1703年)さんです。
堀部安兵衛(やすべえ/やすびょうえ)で知られております。
この方、生まれは新潟県の新発田市(しばたし)でお生まれになりました。
元々の苗字は中山でした。
ご両親は武庸さんが幼少の頃にお亡くなりになり、
親戚を頼って上京します。
その後、現在の文京区にあった堀内正春(ほりうちまさはる)さんの剣道場に入門をします。
この剣道場は当時有数の道場として名を馳せていたようです。
この道場で若き堀部 武庸はメキメキその腕を上げていきます。
そして、なんと最終的には免許皆伝となって堀内道場の四天王(他の3人は奥田孫太夫、菱沼式兵衛、塩入主膳)になりました。
ちなみに奥田孫太夫(おくだまごだゆう)も赤穂藩に仕え堀部武庸と同僚になります。
菱沼式兵衛(ひしぬましきべえ)はその後「菱沼流」を確立させるほどの剣士になります。
塩入主膳(しおいりしゅぜん)も「塩入流」を完成させます。
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歌川国貞 – “Images and Literary Sources – The Floating World of Ukiyo-e” Library of Congress, USA, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1664990による