甘霧庵

古都京都の文化遺産 その52 その後の唯善さんはどうなったのでしょうか?

皆さんこんにちは。

甘霧庵でございます。

さて、唯善事件のその後を追ってみます。

まずは唯善さんは、鎌倉の常葉(ときわ:常盤)において草庵(一向堂)を結び、

唯円師匠から教えられたされた親鸞さんの教義を広く教え始めました。

現在はその草庵はありませんが、

鎌倉市常磐には一向公園があり、

唯善さんが草庵を結んだのはここではないかとされております。

その後、下総国関戸村中戸(現在の千葉県野田市関宿町)に移り、

「中戸山 西光院」(なかとさん・さいこういん:後の常敬寺)を創建され、

広く門徒教化に尽力されました。

そして51歳で生涯を終えられました。

ちなみに西光院は

天正2年(1574)の戦乱(第三次関宿合戦)

で堂宇を焼失したのち、戦争の混乱で

当山は寺地・寺領を古刹・報恩寺に奪取

されます。

天正4年(1576)のことです。

常敬寺は信濃に移りました。

寛文6年(1666)に

現在地の越後高田寺町に移りました。

なお、別の説として唯善さんの孫である善宗さんを先行させ一旦関東圏の信者を結束させて地場を固めてから真打唯善さん登場。

みたいなことを狙ったのかもしれません。

ちなみに覚如の子孫が大谷姓名乗るように

唯善さんの子孫は中戸姓を名乗るようです。

画像

台北市にある西本願寺跡地の広場案内板。台湾語、英語、日本語の案内がある

 

 


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