甘霧庵

古都京都の文化遺産 その85 せめてもの慰めに渡った小島「苅藻島」。辛かったろうに。

皆さんこんにちは。

甘霧庵でございます。

さて、明恵上人が生まれ故郷の有田町で修行をしている時、

上人はとんでもない野望を抱きました。

それが天竺旅行計画です。

お釈迦様への憧れが強すぎるあまり、

「お釈迦様が生まれ、歩いた聖地をこの目で見て、その土を踏みたい」という情熱を抑えきれなくなったのです。

明恵上人の計画は、単なる夢物語ではなく、非常に具体的で現実的なものでした。

現在も高山寺には、上人が自ら書いた『天竺(インド)行程記』というメモが残されています。

これには、中国の唐の時代にインドへ渡った玄奘三蔵(三蔵法師)の『大唐西域記』などを徹底的に調べ上げ、

以下のようなルートや日数がガチで計算されていました。

  • 日本から中国(明州)までの海路の日数

  • 中国の長安からシルクロードを通り、天竺(インド)の王舎城(ラジギール)に至るまでの距離

  • 「1日に何里歩けば、何年何ヶ月で到着するか」という具体的なスケジュール

これを有田の山奥などで、地図や文字を貪るように見つめながら計画していたのです。

そして、いよいよ出発するぞという時になって断念せざるを得ない出来事が起こりました。

それについては次回に回すとしまして。

天竺行きを断念した明恵上人はせめてもの慰めに和歌山県湯浅町の沖合に浮かぶ小島「刈藻島(かるもじま、表記としては「苅藻島」とも書きます)」にわたり西に向かって手を合わせたそうです。

続く。


Leave a Comment

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA