皆さんこんにちは。
甘霧庵でございます。
さて、徳川幕府の第3代征夷大将軍である徳川家光将軍は、
朝廷との関係を修復するために1634年に京都にお越しになりました。
その後、なんと229年にわたって徳川将軍が京都にお越しになることはありませんでした。
そうなると二条城は京都の支店長的な方が二条城を切り盛りしながら、
朝廷との折衝をしておりました。
その間に落雷で天守閣が炎上し、
1788年に発生した天明の大火災で二条城どころか御所まで焼けたそうです。
その被害や応仁の乱を上回るとも言われております。
この時、完全に焼失してしまった建物は放棄し、破損したところだけ修復することになりました。
天明という時代は災難な時代だったみたいです。
歴史音痴の私ですら天明の大飢饉は聞いたことがあります。
幕府も本当なら二条城を完全に復元したかったのでしょうが、
天明の大飢饉におわれて十分な資金提供できなかったのでしょう。
さらに悲劇が襲います。
1830年、京都で大地震が起こります。
この地震でやっと復興した二条城の石垣の一部が壊れてしまいました。
これにより二条城はとても政務を執り行うことはできなくなります。
政務は二条城の北側に京都所司代屋敷を作り、
そこで政務を執り行いました。
場所はこちら
続く。